患者さんから「ここに小さい虫歯があるのに、なぜ治療してくれないのですか」と問われる時、私たち歯科医師は、その不安な気持ちを痛いほど理解しています。しかし、そこで安易にドリルを手に取らないのは、目先の虫歯をなくすことよりも、その歯が十年後、二十年後も健康であり続けること、つまり「歯の寿命」を最優先に考えているからです。私たちが「削らない」という判断を下す際には、いくつかの基準を総合的に評価しています。まず、虫歯の深さです。視診だけでなく、レントゲン撮影によって、歯の内部でどの程度まで虫歯が進行しているかを確認します。表面が少し黒いだけで、内部に全く影響がなければ、急いで介入する必要はありません。次に重要なのが、虫歯の「活動性」です。同じ初期虫歯でも、表面が白く濁ってザラザラしているものは、活発に進行しているサインです。一方で、表面が黒くてもツヤがあり、硬いものは、進行が止まっている「静止性カリエス」である可能性が高いのです。この静止性の虫歯は、いわば病気の痕跡であり、無理に削り取る必要はありません。さらに、患者さん一人ひとりの口内環境も大きな判断材料となります。ブラッシングが非常に行き届いており、虫歯のリスクが低い方であれば、初期虫歯は自己管理でコントロールできる可能性が高いと判断します。逆に、清掃状態が悪く、新しい虫歯が次々とできているような方であれば、同じ小さい虫歯でも、将来的に進行するリスクが高いと判断し、早期の治療を提案することもあります。このように、「削らない」という選択は、決して適当な診断や放置ではなく、科学的根拠に基づいた慎重な臨床判断の結果なのです。私たちは、歯を単なるモノではなく、体の一部である一個の「臓器」として捉えています。その臓器の寿命を一日でも長く保つこと。それが、私たちの使命だと考えているのです。
なぜ削らない?歯科医が下す判断の裏側